現実と幻想の混合

こういったテーマ代わりと好きです。
特に、幻想だとしか思えないのに、証拠を突き詰めていくと幻想ではない可能性の方が高く見え、最終的にどちらともいえなくなるような
そういう話が凄く好き。
もしくは、幻想が現実に迷い込むような話も好き。
なんでこんな事を書いてるかというと、「魔法にかけられて」なんて作品の話を見かけたからなんですけどね。

いつかこういう系の話を一本自分で書いてみたい。
だけれど、文章力が無さ過ぎるので絶望的だともわかっている。
でも夢は捨てられないのだ、夢というよりは憧れとかそういうレベルだけどね。

お題と結論がない

自分の書く日記は日記ではなく思考の駄々漏れで
ただ書きたいから書いているだけなのでお題は無いか曖昧で、合ってもそれに対する結論とはまったく関係の無い話が展開されるだけで終わる。
自分でもたまに読み直してどうかと思うのだが、文章をまとめる能力なぞ欠片もないし、そんな難しいこと考えながら書いても楽しくないので書かない。
でもきちんと読んで意味の通る内容にしたいとも思うわけで……

ま、正直どうでもいいか。
どうせ誰も読まない!

親しさを計る物差し

自分が人と話しているとき、自分の中には二つのパラメーターがあるように思える。
一つは遠慮、一つは熱意。
遠慮は言い換えると厳選、もしくは絞込み。
基本的に親しく無い相手ほど遠慮が強くなり、必要最低限度のみに絞るようになる。
熱意は言い換えると意欲、もしくは思考量。
基本的に親しい相手ほど熱意が下がり、最終的に脊髄反射でのみ話すようになる。

親しさとは厳密には比例していなくて、
熱意ある話し方をしていても親しい人は居るし、逆に遠慮しっぱなしなのに親しい人もいる。
ただ、自分の思考は非常に訳の判らない方向を常に向いているので
遠慮がなくなれば無くなるほど支離滅裂になる、特に弟と話しているときなど自分でも訳の判らない発言が本当に目立つ。
そういう意味では、遠慮の無さと親しさはあまり関係ないかもしれない。
たぶん、相手に通じるかどうかで遠慮のレベルが変わっていて
通じ合いやすい相手とは自然と親しくなる、といった方がきっと近い。
熱意のほうは部分的にはU字型に近くて
親兄弟のような人とは親しくなればなるほど熱意は下がるが
プログラマー関連の友人などは親しくなればなるほど熱意が上がる傾向がある。
やはり人間単純には行かないということなのだろう。

書いていて気づいたけど、弟相手には理解させる気が無いから遠慮が無くて
友人には理解してもらいたいから遠慮がある気がしてきた。
そうか、人間とは相手に理解させる気も無く適当に喋るとあんな言語になるのか……

三代目他人の空似

またも移転しました。

ドメインが短すぎたために、wordpress.click3.org時代を知る友人に総当りでばれるという大事件が発生したため
それなりに長めのドメインに移転しました。
別に中身は何も変わってないわけですが、ドメインとしては三箇所目。
そろそろwordpressやめて名前も捨ててドメインも大本から挿げ替えて、誰が見ても他人の空似と同じ管理人だとはわからぬように移転しようかしら。