他人の空似

2010 年 4 月 18 日

個人創作

Filed under: 未分類 — 中の人 @ 4:11 AM

素人の個人創作物は良い、なんというか密度が違う。

確かに、品質という面ではプロが作ったものの方が遥かに優れているし、当たり外れの率も段違いだ。
だけれども、プロが作ったものには深み?奥深さ? そういうものが無い。
いや、創作物そのものにはもちろんある、むしろ創作物自体の深みはプロの作品の方が遥かに優れている事が多いと思う。
だが、それに込められた思いというか、作り手の存在というか、そういうものが違う。

例えば、プロが作る場合、ほとんどの作業には慣れていて、大部分の作業は何も考えなくともできる、そういう状態にあり
考えるべき部分においても、何をどう考えれば良いのかも慣れているため、最終的にはあまり考えずに作られる。
もちろんそんな事は無いという人も居るだろう、けれど、初めてその作業に携わった時の自分が、今時分が作っているものを作ろうとしたとしたら
今の自分と同じ量しか考えずに同じ物を作れるだろうか? と聞かれれば、きっと誰しもが無理だと答えるはずだ。

つまり、プロでない個人はそれが正しいのかも判らず、だからといって正しいものしか出してはいけないという制限もなく
自分の持ちうる全て、とまでは言わないまでも、ありとあらゆる雑多な思いと考えを込めて作り出している。
それはプロには出来ない事だ、水が独りでに滝を登る事は無いように、無駄で非効率で意味が無いとわかっていることを自分からする人間などそうはいない。
だからこそ、間違いや王道を外れたものが当然のように編まれている製作物には、洗練された作品にはない物がある。
よく使われる表現としては、血が通っているようなとか、呼吸さえも感じ取れそうなとか、そういった表現になるだろうか。

もっと踏み込んで例えよう。
推理小説があったとして、100のトリックを思いつき90のトリックを没にしたとする。
この背景は完成品だけ見ても判らない、ただ推理小説として楽しいだけだ。
だが仮に、その捨てられた90のトリックを見る事が出来たなら、そこから作者がその完成品に至るまでの道筋を辿る事も可能になるかもしれない。
プロというのは効率がよい者のことを指す。
人にはやる気などといったエネルギーを使える量は決まっている。
そしてプロと素人では万ではすまない効率差がある、だからプロはよい物を作れる。
なので、プロはそもそも90も無駄を出さないし、出したとしても表に出すことは無いし、出す事が許されないことも多い。
だから見えないし判らない、綺麗に濃縮された上澄みだけが消費者に与えられるのだ。

だから、素人が効率的な方法を知らず、模索し、間違っているかもと思いより良いの道を探し、脳味噌の髄まで絞りきっても見つからず、不安を抱えたままその道を進む。
そういう試行錯誤というか、込められた想いの違いが、自分という消費者にとってはたまらなくよい物に見えるのだ。

要するに何を言いたいのかって言うと、インスピレーションとかモチベーションを得たいなら個人創作物の方が優れているよね、って話。

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