他人の空似

2018 年 1 月 18 日

試行錯誤の最小化は本当に正しいのか?

Filed under: 未分類 — 中の人 @ 10:25 PM

駄文、もしくはポエムの類だ、嫌いな人はスルーしてほしい。

以降の記述はすべて”情報科学においては”と装飾されているものとする。
また一個人の考えであり、正しさを保証するものではない。


まず世間においては以下のような考えを主張する人が多くいる。
「ほとんどの問題はすでに解決した人がいるので、試行錯誤したら1時間かかることも探せば10分で答えが見つかる、だから試行錯誤は最低限に抑えるのが上達のこつだ」
これは自分も複数人から実際に聞かされているし、大体の場合は正しいと思う。
しかし自分は正しくないこともあると考えている、それも結構な確率で。

前提として探しても答えが見つからない場合にどうするかを考える。
もちろん組み合わせ爆発的な問題があるので実際試せばわかる程度のものは含めない、もっと根本的にそれが何かすらつかめていないレベルのものだ。
「ほとんどの問題はすでに解決した人がいる」を前提に話している以上は探し方が悪いと言いたいのだろう。
なので「答えを見つけられる探し方を探す」方向に進むか「解決不能な問題である」と諦めるべき、ということだと思う。
以降はこの前提を置いて進める。

では本題として前述の主張に対する欠陥を指摘する。
「ほとんどの問題はすでに解決した人がいる」が事実だとしても「解決しても公開する人は圧倒的少数派である」ことが抜けている。
例を出そう。
「ゲームコントローラーの入力を受けて、フォーカスが当たっているゲームに、任意のキーボードイベントを送りたい」という問題を考える。
これはjoytokeyというアプリで実際に解決されていて、具体的な方法はWin32APIのkeybd_eventの極一部のドキュメントにしか記載がないbScanという隠し機能を使うというものだ。
では、探すだけでこの具体的な方法にたどり着けるだろうか?
2018/01/18のgoogleによれば「joytokey」では260,000件あるが「joytokey keybd_event」では244件で「joytokey keybd_event bScan」は20件、実際に記載があったのは2件で、どちらも無関係な第三者が調べた結果だ。
試行錯誤なしにこの情報にたどり着くのは常人では難しいだろう、少なくとも自分だったら無理だ。
このように明確に解決した人がいても公開しないことは普通なのだ。

公開されないと何が問題かと言えば、誰かが解決済みでも自分は解決できないことが多数発生することだ。
少し考えればわかるだろう、ソース非公開の素晴らしいアプリがあったとしてそれを100%模倣することなど普通は出来ないのだから。
普段探して解決している問題は解決した人がたくさんいるから公開する人も多かっただけに過ぎない。
つまりほとんどの問題は探して解決するなどというのは幻想で、探すだけでは解決しない問題は大量に存在しており、ただそういう問題は直面する確率が低いだけなのだ。
そして1%の事象でも100個集まればそれなりに踏むように、これらの問題のどれかは結構な確率で踏む。
そんな時に毎回諦めるのは本当に良いことだろうか?そうして得られる知識だけで本当に上達したと胸を張れるのだろうか?
自分は違うと思う。

成長とはその技能そのもの以外にも、その技能関連問題をどれぐらい解決できるかも含むと自分は思っている。
なので、誰も教えてくれない知識に自力でたどり着けるようになることも成長だと思う。
もちろんたどり着けるようになる方法そのものを探して身に着けるということは否定しない。
しかしプログラミングなどのように実践しようと思えばいくらでも実践できる分野ではないので、ある程度は都度試行錯誤していくのがベターだと思う。
さすがに毎回探す前に試行錯誤するようでは問題あるとは思うが。

以上、試行錯誤しないと手に入らない知識ばかり気になってここまで来たのに否定されまくったことの愚痴でした。


ちなみに初手試行錯誤も自分は否定しない。
0から試行錯誤した経験はその知識に対して多角的視点を与えてくれる(プログラミング作業では車輪の再発明とも呼ぶ)。
コストが高すぎるので全てで行うことは馬鹿げているが、一切やらない人はそれはそれで愚かだと思う。
なので試行錯誤は用法用量を守って正しく行いましょう、というお話だったとさ。

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