自己嫌悪の理由とか

最近自己嫌悪が酷く、よく死にたくなる。
なら、具体的にどういう人間になりたかったのかと考えてみれば、特に何も思い浮かばない不思議。
いや、想像がつかないという意味ではなく、考えれば考えるほど今の自分そのままになる、という感覚。
我ながら不思議だったのだけれど、今ちょっとだけ理由がわかった気が舌ので書いておく。

自分は昔から人付き合いやら空気を読むやらそういったことが心底嫌だった、そんな事しなくても生きていけるようになりたかった。
だから、いっそそういった方面では意識的にダメになり、それでもなお平然と生きていけるような、そんな一芸特化の人間になりたい、そう願っていた。

実際、その夢は叶ったといえる。
そりゃ世界一とか考えていた理想には遠く及ばないにしても、対人能力があれほど欠けているのに社会人出来ているのが証明だと思う。

ならば、なぜこんなにも生きるのが辛いのか?
それは対人能力が低いという事が、予想以上に苦しいものであったからだろう。
対人能力の欠如がこれほどに仕事に支障をきたすものだとは予想すらしていなかったのだ。

例えば、自分の仕事のうちかなりの時間が他人との議論に費やされる。
自分が言いたいことは他人に伝わらず、他人の言いたいことを自分は理解できない。
そうやって余計なことをしたり必要なことをしなかったり、そんなすれ違いはしないほうが珍しいというぐらい日常茶飯事だ。

結果、自分は人並みの対人能力を持っていたら出来ただろう作業の1/2程度しかこなす事ができていない。
それだって皆の多大な労力の上に成り立っているもので、全体ではマイナスになっているかもしれない。

たぶんこれが自己嫌悪の理由、「そんなはずではなかったのに」という自身への失望と、今までの全てが無駄であったと知らされたかのような自己の否定だ。
自分は愚かで、対人能力がなくても90%程度の実力は出せるだろうと甘い憶測の上に生きていた。
20年かけて築き上げてきた力は、一番最初に捨てた物一つに負け、今や自己嫌悪で気が狂いそうになっている。

自分にだけは嘘をつかないで生きてきた、自分が正しいと思う道を曲げた事は無い。
望まない結果になったことは数多いが、それでも自分の軸は物心付いたころの夢や理想からたいしてぶれていないはずだ。
間違いだったのは唯一つ、子供の想像力は人の一生を委ねられるほど正確でなければ正しくも無いということだ。

だけれども、自分はこれからも生き方を変えられはしないだろう。
稚拙な頭で考えた理想に突き進み、結果間違いに気づいて後悔し続けるんだと思う。
そして、短所を補う暇があれば長所を伸ばす方がいいという考えも変わらない。
ぶっちゃけてしまえば、心のどこかで諦めているからで、そんな伸びる目の無い事を続けるぐらいなら上を見ていたいからだ。

好きこそ物の上手なれ、きっとこの言葉は苦手なことは好きになる所から始めようとかそういった教訓を含んでいるんだろうが、自分は別の意味で使う。

好きこそ物の上手なれ、苦手を1伸ばす余裕があったなら好きを10伸ばすべし、そうすればもしかしたら、今の自分もまだ至れていない理想に手が届くかもしれないのだから。


適当に書いていたら今までわだかまっていたものが抜けていった気分。
結局開き直っただけですが、やっぱり欠点に怯えて直そうと努力するなんて性に合わないってことなんだろう。
もうそんな事どうでもいい、一応出来る範囲では努力するけれど、そんなのは所詮二の次三の次。
自分が目指すべきはスーパープログラマーで、目標は生涯コード書きで生きていけるだけの能力をつけること。
そう考えたら、こんな瑣末事で時間を無駄にするとかありえないですよね!

うおお、OSでもコンパイラでも3Dゲームいいから何か書くぞおおおおお、うおおおおおおおおお

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